プセルロス年代記 バシレイオス2世

【バシレイオス2世 位976-1025】

1.
皇帝 ヨハネス1世ツィミスケスの崩御に際しての状況は、既に、[輔祭レオンの『歴史』の中で]著されている。

ロマノス2世の息子であるバシレイオス(2世)とコンスタンティノス(8世)は、先代(ニケフォロス2世、ヨハネス1世)の努力によって、多くの勝利を収め国力を今や大幅に増大させた帝国の正統なる継承者であった。

2.
両皇子は、少年時代の終わりに差し掛かっていたが、彼らの関心は互いに全く別のところにあった。二人の内、年長のバシレイオスが、常に警戒心と知性と思慮深さを思わせるのに対して、弟の方は、どう見ても無気力で、いつも怠けていて、しかも贅沢な暮らしに没頭していたのである。

そのため、当然ながら、共同統治という考えは捨て去られた。共に異議なく、全ての実権はバシレイオスが握り、コンスタンティノスは名ばかりの共同皇帝となる。これは懸命な決断だった。帝国が申し分なく統治されるためには、年長で経験豊富な兄が帝国最高の地位を継承することが欠かせなかったからである。

コンスタンティノスには、法律上、兄と対等に父の遺産を分け合う資格があったが、継承にあたって、コンスタンティノスが自身の特権の大部分を放棄したのは、賞賛すべきことと言えよう――

ここで言う「遺産」とはすなわち、帝国のことである。

当時、コンスタンティノスはとても若く、権力欲に燃えやすい年頃であっただけに、彼の(バシレイオスに実権を譲るという)決断は驚嘆すべきものと言えた。今一つ心に留めおくべきは、バシレイオス(2世)がまだ成人どころか青二才に過ぎなかったということである。くだけた言い方をすれば、彼は「ヒゲを蓄え始めた」に過ぎない存在だった。

にもかかわらず、コンスタンティノスは、バシレイオス(2世)に上位を譲っている。それだけに、私はこの歴史の始まりに、この弟に敬意を払うべきだと考える。

3.
ひとたびローマ人を支配する最高権力を与えられると、バシレイオス(2世)は誰かと計画を共にしたり、公務について助言を受けたりすることを嫌うようになっている。

一方でそれまで軍事や民政の経験が無かったため、彼は、自分の判断のみに依ることができないと気付き、結果としてパラコイモメノス(寝室管理長官)であるバシレイオス(・レカペノス)の補佐を受けることを余儀なくされた。

ところで、この人は当時、その知性の深さや偉丈夫ぶりの双方において、ローマ帝国内で最も抜きん出た人であった。パラコイモメノスは、バシレイオス2世とコンスタンティノス8世の父とは、同じ流れの父親からの生まれであったが、母方からは別の血を引いている。幼少期に彼は去勢される羽目となる。それは、愛妾の息子に対する当然の予防策であったが、そうしたことから、正統なる継承者からの帝位簒奪は望むべくもなかった。

実際、パラコイモメノスは己の運命をあきらめ、結局は自身の家系である帝室に純粋に忠誠を示している。彼はその身を甥のバシレイオス(2世)に捧げ、この若者を愛情をこめて奉じ、優しい里親のように彼の成長を見守った。

バシレイオス(2世)がこの男の双肩に帝国を背負わせたことは、驚くには値しない。この年寄りの真面目な性質も、皇帝の性格に影響を与える。

実際、パラコイモメノスが競技を闘う選手のようであった一方、皇帝バシレイオスは、観客として彼を見ていたが、単に勝者に喝采を送るだけでなく、むしろ走って自らを鍛え、バシレイオス(・レカペノス)の足跡を追ってそのやり方を真似ていく観客であった。

そう、全てはパラコイモメノスにひれ伏した。市民も軍も、パラコイモメノスの方向を向いていた。そして、彼は、軍の実権を握り、財政を管理し政府を運営するために事実上、専権を振るったのである。

この仕事においてパラコイモメノスは皇帝の支持を得ていた。皇帝は、言葉と行動の双方でその施策にお墨付きを与えただけでなく、文書化までして裁可していたのである。

4.
皇帝バシレイオスを見た我々の世代の大半には、彼は物腰は厳格で無愛想、ころころと気移りすることもなく、生活態度は謹厳で、あらゆる軟弱さを嫌う癇癪持ちと見られている。

けれども、当時のバシレイオス2世について記した歴史家を信じるなら、彼はその治世の始めには、全くそうした人物ではなかった。

バシレイオス2世の性格には登極後に変化が起こり、以前の放蕩に流される酒色に溺れるたぐいの暮らしとはうって変わって、極めて精力的な人になったのである。

彼の生涯をすっかり変貌させたのは、大きな事件による重圧であった。彼は堅物になったと言える。弱々しさは強さの前に姿を隠し、以前のようなだらしなさは、目的が新たに定まったことで消え失せた。

若き日のバシレイオス2世は、人目も気にせず宴に興じ、しかも度々、愛欲の快楽に溺れている。彼が主に関心を向けたのは宴であり、日々を宮廷の怠惰な雰囲気の中で放蕩にふけって過ごした。若さと限りない権力の組み合わせが、バシレイオス2世に勝手気ままを許したが、彼はそんな暮らしを存分に楽しんでいる。

かの悪名高きスクレロスとフォーカスの反乱の企てによって、彼の生き方は完全に変わってしまった。

スクレロスは二度、反旗を翻したが、他にも、反皇帝の二派と共に帝位を狙う者が現れる。これを機に、バシレイオス(2世)は気楽な暮らしを忘れ去り、一心不乱に深刻な事態に対応した。

ひとたび、最初の打撃が権力を執る一門の人間を襲うと、彼は自ら断固として相手の完全な殲滅を成し遂げようと決意する。

―スクレロスの反乱―

5.
無理もないことだが、思い切った政策はニケフォロス・フォーカスの甥たちを激しい反乱へと駆り立てる。

困難を引き起こしたスクレロスは、有能な立案者だっただけでなく、計画の遂行も極めて巧妙で、莫大な富[帝位を目指す上でなかなかの資産]を保有していた。それと同時に、帝室の血統と大きな戦争での成功による威信もある人物で、彼に味方した全ての軍閥がその事業を支えた。

スクレロスの企てたクーデターはかなりの支持を得ている。

この企ては、バシレイオス(2世)を引きずり下ろそうとする不敵な反体制活動の最初のものだったが、この帝位請求者は、勝利を強く確信していた。

スクレロスは、手を伸ばしさえすれば帝国を奪えると考え、歩騎全軍をもって皇帝に反旗を翻して進軍する。

実際に重装歩兵はスクレロスの下へと一同に集結し、皇帝の参謀らはこれを知ると、自分たちに望みは無いものと信じた。しかし、思い直した彼らは心機一転し、事態の全貌は別の姿をとり始める。

政府は、バルダス(・フォーカス)と言う名の男が反乱軍の好敵手になり得ると気付いて、絶望を勇気へと変えた。政府にとって、バルダス(・フォーカス)は、嵐から守ってくれる安全な停泊地に思えたのである。

実際、バルダス・フォーカスは高貴な生まれで非常に勇猛な人物であり、皇帝 ニケフォロス・フォーカスの甥でもあった。そうしたことから、政府は残存兵力の全てをバルダス(・フォーカス)に預ける。彼は司令官に任じられ、国家の敵と交戦するために送り出された。

6.
政府の当面の困難はこうして克服された。

けれども彼らの新しい将軍は、スクレロスに劣らず恐るべき存在であった。バルダス・フォーカスは、皇帝の血を引いている。おそらく、彼は人の下にいることに満足してはいなかった。

そこで政府は、バルダス・フォーカスから市民の服装と帝室のしるしの全てを剥奪し、聖職に就くことを強制する。ついで政府は、反逆罪を犯さない、約束を違えないという最も不安な誓いを彼に義務づけた。

バルダス・フォーカスが将来抱くであろうあらゆる野心的な計画に、こうした予防策を講じて、政府は彼を皇帝の全軍と共に出陣させている。

7.
歴史家によれば、このバルダスという男は、常に憂いを帯びており、注意深く、そして、あらゆる事態を予見する力があって、一見しただけで全てを理解できるところから、人々に彼の伯父である皇帝 ニケフォロスを思いおこさせている。

彼は、軍の指揮において無知とは無縁で、攻城戦についても、待伏攻撃についても、正面決戦についても、通じていないことは無かった。

肉体的武勇では、またバルダス(・フォーカス)は、スクレロスよりも強壮でたくましい。実際、バルダス・フォーカスの手による一撃をくらったものは、即座に死人となり、彼が彼方から叫んだだけで、全軍が震え上がった。

彼は、軍を編成して大隊に分割すると、敵をその数の多さにもかかわらず、一度ならず何度も、打ち破っている。実際、バルダス(・フォーカス)は、数的劣勢に反して、技量と軍略と士気とで、敵を凌いでいた。

8.
両軍は自信を持って敵とぶつかる。両指揮官は共に一騎打ちで決することにした。そこで、互いに両軍の戦列の間へ打って出て、相手を見い出し、苦もなく接近戦に至る。

反逆者 スクレロスは、その生来の性急さを抑えられず、この種の戦いの常道を破り、フォーカスに近づくと渾身の一撃をその頭上へ浴びせた。この一撃は、突進しながらなされたために一層、力が加わったものとなる。

フォーカスは、この予想外の一撃に唖然として、手綱を一瞬、操れなくなったが、正気を取り戻すと、同じく敵の頭上へ一撃を浴びせ返した。

そのため、スクレロスは戦意を喪失して敗走する。

9.
愛国者も反逆者も共に、ここがこの戦争の勝敗の分かれ目であると確信していた。スクレロスは体面を完全に傷付けられてしまったため、確かにこれほど皇帝の勝利に貢献した出来事もない。スクレロスは、もはやフォーカスとの戦いで、持ちこたえることはできなくなっていたのである。

彼は恥を忍んでまで皇帝に赦免を請うことはしなかった。

こうしたことから、スクレロスはあまり賢明とも安全とも言えない方策を採って、全軍をローマ領からアッシリア(ブワイフ朝領)へと移している。

そこで、スクレロスはコスロエス王(ブワイフ朝の君主 アドゥド・アッダウラ)に自らのことを知らしめたが、その疑念を招くこととなった。というのも、コスロエスがスクレロスの軍勢の多さを恐れていたからであり、また、ローマ人が自身を急襲する可能性を考えて神経質になっていたからでもある。

その結果、スクレロスの手勢は、捕虜となって獄に繋がれることとなってしまった。

―バルダス・フォーカスの反乱―

10.
一方、バルダス・フォーカスは皇帝の下へと帰還する。彼は、凱旋式を行う光栄に浴して、帝王の個人的な友人の間に名を連ねることとなった。こうして最初の反乱は幕を閉じる。

一見、バシレイオス2世は全ての悩みから解放されたかに見えたが、しかし、この対立者の崩壊は、続いて起こる数多の諸悪の前兆に過ぎなかった。

フォーカスは最初にビュザンティオンに帰還した際、栄誉にあずかったが、後になって、自身が軽んじられていることに気付く。フォーカスの野心は再び、己の自制の手をすり抜け始めた。彼は、自身の処遇を不当だと考えていたのである。

フォーカスは信頼を裏切るようなことはしておらず、具体的な条件を呑んで、それを忠実に守ってきた。そのため、不満を抱いて、反乱へと突き進んだのである。

それは、先のスクレロスの企てよりも一層深刻で、反撃し難い反乱となった。バシレイオス2世に反対する軍の大半が、フォーカスに味方する。最も有力で強大な一族らを味方に引き入れたフォーカスは、政府に公然と反旗を翻すことを決意した。

徴集された(コーカサス山麓の)イベリア人たちの軍は、荒々しく、誇り高い、極めて大柄な戦士たちである。

フォーカスが、皇帝のしるしとも言える緋色の帝衣をまとって帝冠を戴いたのは、もはや絵空事ではなく紛れもない事実であった。

11.
続いて何が起こったかと言えば――

対外戦争が、バビロニア(ブワイフ朝)の人々を驚かせた。スクレロスが軍と共に支援を望んでいたコスロエス王も同様である。既に述べたように、スクレロスの望みは叶っていない。

この戦争は、コスロエス王の財源に恐ろしい負担がかかり、多数の軍勢が巻き込まれるものであることは明白だった。コスロエスは他国からの支援なしで自軍が戦うことに不安があった。そこで彼は亡命してきたローマ人(スクレロスとその一党)に助けを求める。

スクレロスらは、すぐに拘束を解かれて牢獄から出され、重武装して相手と対陣した。スクレロスとその一党は、雄々しく好戦的な戦士たちで、歩兵の配備に精通しており、二つの隊を編成して両翼を形成する。そして密集隊形を取ると、馬に跨って鬨の声を上げながら突撃し、あるいは討ち殺し、あるいは敗走させた。追撃は、土塁まで続き、そして、相手は完全に壊滅する。

帰陣するとスクレロスらローマ人たちは、みな同じ考えを吹き込まれたかのように逃げ去った。コスロエスを恐れていたからである。

彼らは、コスロエスが自分たちを大事にせず、再度、自分たちを牢へ戻してしまうだろうと信じて疑わなかった。そのため、気力を振り絞って全力で逃走し、アッシリア人がそれと気付く前に相当の距離を踏破する。この作戦はアッシリアで行われた。

コスロエスは自軍が集結すると直ちに、ローマ人と遭遇した際には追撃するように命じる。

現に大軍でローマ人へ背後から襲いかかったが、彼らはすぐに自分たちがどれほどローマ人らに劣っているか思い知った。

逃走兵だったはずの者たちが突如として反転し、追撃兵を打ち負かしたからである。

追撃当初には、敵軍はローマ兵に数で勝っていたにも関わらず、大損害を被り、明らかにローマ勢よりも小勢となってしまっていた。

12.
ここでスクレロスは、この機を捉えて権力闘争を再開しようと決意する。スクレロスは、帝国全土を収穫する良い機会であると考えていた。フォーカスが既にアナトリアへと去り、皇帝の全軍が散らばっていたからである。

しかし、ローマ領の国境まで至った時、スクレロスは、フォーカスが自ら帝位を狙っていることを知る。この時、スクレロスは、皇帝やフォーカスを相手にできる立場に無かったので、今度は不遜にも皇帝をこき下ろしつつ、フォーカスに自身が臣下であるように装ってみせた。

フォーカスが主導権を執り、スクレロスは、彼に仕えることを受け入れる。その際、スクレロスの軍は二つに分けられ、反乱軍は大いに強化された。

自身の兵や軍の配備に自信満々であるフォーカス軍は、プロポンティスと海沿いの要衝にまで到って、塹壕の安全を確保すると、もうほとんど海を飛び越えようかというところであった。

13.
皇帝バシレイオスは、ローマ人の間に見られる不忠をよく知っていたが、程なく、選りすぐりのスキタイ人(ルーシ人)の一団がタウロイの地(クリミア)から皇帝の救援にやってきた。彼らは、立派な体躯の持ち主である。皇帝は彼らを個別の部隊で訓練し、他の傭兵たちと合流させて中隊に分割すると、反乱軍と戦うために出撃させた。

反乱軍が見張りも立たせず、腰掛けに座って酒を飲んでいたところへ、皇帝軍が、不意打ちを掛ける。皇帝軍は、多数の反乱軍を討ったが、残りも方々へ散り散りとなった。

敵の残党はなんと、徒党を組むと気勢を上げてフォーカスその人に反抗する。

14.
バシレイオス2世は自らローマ軍の中に身をおいて、これらの作戦に従事していた。彼はちょうどあごひげを蓄え始めたばかりであり、実際の戦闘から戦術を学んでいたのである。バシレイオス2世の弟 コンスタンティノスでさえ、胸甲と長槍で武装して、戦列に加わっていた。

15.
両軍は、相見える。海岸には皇帝軍、高台には反乱軍。双方は距離を取って布陣した。

フォーカスは、相手の軍中にバシレイオス2世とコンスタンティノスの姿を見付けると、もはや戦闘をためらわなかった。

フォーカスが確信していたように、この日は、戦争の転換点であり、帝国の行く末を決める日となった。彼は己の大望を運命に託す。

そうしたフォーカスの決意は、軍中にあった占星術師の助言とは正反対のものだった。占星術師らは、フォーカスを説得して戦争を止めさせようとしていたのである。彼らが捧げた占いのための生贄は、明らかに、開戦の愚を示していたが、フォーカスは、馬に手綱を付け、助言を頑なに聞き入れなかった。

占星術師の占いの結果と同じく、彼には悪い兆候が現れていたとされる。フォーカスが馬に乗った直後、馬が足を滑らせたのだ。他の馬に乗っても同様であり、何歩か進んだ後にも同じようになる。しかも、フォーカスは肌が変色し、不吉な予感がして、頭は目眩に襲われていた。

とはいえフォーカスは、ひとたび志したことを曲げるような人間ではなかったので、馬を駆って陣頭に立ち、既に皇帝軍の近場まで来ていた。

彼は、周囲に歩兵を集める。

イベリア人の中でも、最も優れた戦士たち――
青年らはみな、若い盛りの中で、ちょうど、ひげを蓄え始め、誰もが定規で測って切り出したかのように等しく背が高い。右手には剣を取って武装し、その突撃には圧倒的なものがあった。

一つの旗の下、フォーカスの周囲にはこうした戦士たちがいた。

フォーカスは陣頭に立って、前進し攻撃を始める。

荒々しい鬨の声と共に急激に速度を上げて、真一文字に皇帝を目指すフォーカスの右手は、今にも皇帝を討ち取らんばかりに剣をかざしていた。

16.
フォーカスが敢然と皇帝目がけて突進する間、バシレイオス2世も戦列の先頭へと乗り出している。彼は剣を手にそこにあった。その左手には聖母のイコンが握られている。彼は、そのイコンを敵の凄まじい猛攻撃に対する絶対の守りと考えていた。

フォーカスが、暴風に追い立てられた雲のように平原を旋回し、襲いかかる。

その間、両翼の者は、フォーカスへ向けて投槍を投げ付けた。中でも、主力のやや前方には、共同皇帝のコンスタンティノスがいて、長槍をふりまわしている。

コンスタンティノスが全速で馬を駆って前進し、味方から幾分離れた直後、フォーカスは突如として鞍から滑り落ち、地面へと投げ出された。

このことについて、著述家たちの記録の間には相違が見られる。

フォーカスが投槍兵の投槍に当たって致命傷を受けたと主張する者もあれば、フォーカスが腹部の異常に見舞われて突如、気絶し、鞍から滑り落ちたとする者もあった。

事実がどうであれ、コンスタンティノスは、反逆者を討ち取ったという殊勲を我がものとした。

しかしながら、普通に考えて最もありえそうなのは、全てが陰謀の結果だったというものである。

フォーカスは毒を盛られた。そして戦場を疾駆するうちに突如として毒の効果が現れて、破滅をもたらすめまいが起こり、意識を失ったのである。バシレイオス2世の計画は、フォーカスに仕える酌人の手によって実行された。

私としては、このことに関して意見を述べるのは控え、(イコンに描かれた)神の御母の御業によって(バシレイオス2世が守られるという)偉業がなされたということにしておきたい。

17.
いずれにせよ、フォーカスは倒れた。それはその時まで負傷することも、捕虜になることも無かった彼の哀れで痛ましい光景だった。

敵軍は、事態を目の当たりにすると、早速、散り散りになって撤退し、密集していた隊列は崩壊する。全くの惨敗であった。

他方、皇帝軍はフォーカス軍の崩壊後、直ちにフォーカスに躍りかかり、彼の護衛だったイベリア兵を蹴散らすと、フォーカスの体を剣で幾度も斬り付けて寸断した。フォーカスの首は、掻き切られてバシレイオス2世に送られている。

18.
皇帝の性格が完全に変質したのは、その時からである。

彼は敵の死を喜びながらも、己の不幸な境遇を嘆いた。そうして、全ての人を疑う、傲慢で秘密主義の気難しい人間になって、自身の命令を仕損じた者に激怒するようになった。

―パラコイモメノス バシレイオス・レカペノスの失脚と追放―

19.
皇帝は、いよいよ親政を始めることに決める。そしてパラコイモメノスのバシレイオスに、国政全般を委ねおくことを許さなくなった。

さらに皇帝は、パラコイモメノスに対して容赦なく憎悪を示し、あらゆる方法で彼を追及し続けて、パラコイモメノスとの面会を拒絶する。

パラコイモメノスは親戚であり、皇帝は、彼から多大な恩恵を受けていた。しかもパラコイモメノスは、良く仕えてくれて、何の不自由もなくしてくれていた。帝国の高官でもあった。にも関わらず、皇帝は彼を敵とみなした。

皇帝に態度を変えるよう説くものは、この世にはいなかった。

実のところ、まるで一般市民であるかのように、(パラコイモメノスと)政権を分け合うことしかできない現状を思うと、皇帝として成人男子として、バシレイオス2世の誇りは傷ついた。

人々は、バシレイオス2世が帝位にある間、いつも誰かと対等に権力を分け合ったか、政府内で劣位にあったと、想像するだろう。

バシレイオス2世はこの問題についてかなり思案している。そして、相当に迷った末に、初めて決断した。ひとたび決断すると、彼は、パラコイモメノスを罷免し、即座に追放する。

一層悲惨だったのは、このパラコイモメノスの運命の変転が、(バシレイオス2世のパラコイモメノスに対する)いかなる尊敬によっても揺るがなかったことである。

事実、皇帝の処断は信じ難いほどに残酷だった。皇帝はパラコイモメノスを海路、追放したのである。

20.
この恥辱もバシレイオス(・レカペノス)の不幸の終わりでないことは明らかだった。むしろ、それはさらなる不幸の序曲となる。

というのも続けて皇帝が、パラコイモメノスによる帝国の統治が始まった、自身の登極から今に至るまでの治世中の出来事について見直し始めたからである。

皇帝は、その期間になされた様々な施策について調査した。皇帝自身の安寧や国家に寄与したものは何でも、法令として残すことを認めている。

一方で、魅力を与えること、要するに、高い地位の授与について言及していた全ての法令は、今や取り消された。

残した施策については、皇帝は自らが承認したものであるとし、廃止した施策については、自らが何も承知していないものであるとした。

全てにおいて、皇帝は、宦官(バシレイオス・レカペノス)に破滅と災難をもたらすために注力したのである。

例えば――

パラコイモメノスは、大バシレイオス(カエサレイアのバシレイオス 330頃-379)を記念して壮麗な修道院を建設したが、それはまたパラコイモメノス自らの名をも帯びたものであった。

修道院は、多大な労働力を費やして、とてつもない規模で建設され、様々な美しい建築様式を組み合わせたものである。さらに、その修道院の資材の大部分は、惜しみない寄付を元手にしていた。

今や皇帝は、この殿堂を破壊し尽くしてしまおうと思っていたのである。

とはいえ、彼は、不信心の誹りを受けないよう気を配っていたため、一度に全てを破壊することはせず、修道院のとある一部分のみを取り除いた。他の箇所の取り壊しや残りの建物、動かせる家具やモザイクなどの撤去も、皇帝は同じような方法で行っていく。

皇帝自身の冗談めいた言葉を引けば、

「彼は、この瞑想の場をとある思索の場にした――
そこに住まう者どもが、思索に耽ることを最低限の生活必需品とみなすような思索の場だ!」

そんな風になるまで、彼は満足しなかった。

21.
当然ながら、パラコイモメノスは、来る日も来る日もこのようにひどく苦しめられて、絶望に胸が塞がった。彼の苦痛に安堵はなく、何の慰めもない。

かつては、心が誇りで満ちていたこの実力者は、突如、一瞬の内に権力の高い頂から転落し、今や自らの体も支配できなくなっていた。四肢は麻痺し、生ける屍となった。

程なくして、パラコイモメノスは亡くなっているが、その生涯は、語り部にとって優れた題材となる正に記念柱と言ってよいものであり、あるいは、世の栄枯盛衰の象徴とも言えるものであった。

パラコイモメノス バシレイオスは、その運命を全うしたのである。

22.
話を皇帝へと戻そう。

バシレイオス2世は、統治権力というものの様々な面を目の当たりにし、そうした途方もない権力を行使するのは容易ではないと見て、自分に対するあらゆる甘さを捨てた。

装身具さえ軽蔑するまでになる。首に襟の飾りはなく、頭に冠は無かった。そして緋色の外套で目立つことを拒んだ。余分な指輪、様々な色の衣服さえも片付けている。

一方で、確実に政府の各部門の権限が皇帝に集中し、対立することなく機能するように腐心した。

皇帝は、他人の扱いのみならず、弟に対しても高慢な態度を取るようになる。それこそ、コンスタンティノスの品位や堂々たる風格を保つのも渋って、彼にほんの一握りの警護しか付けなかった。

バシレイオス2世は、まず、自らを律し、いわば、君主制の誇り高い装置を喜んで自らはぎ取った。皇帝は、今や弟も同様に扱い、彼の権限も次第に縮小させていく。

弟には、彼が特に好んだ美しい田園風景と入浴と狩猟とを楽しませ、一方で皇帝自身は、自軍が苦況に立たされていた国境へと出かけていった。

要するに彼の野心は、我々ローマ人を包囲し、国境を攻撃するバルバロイを東でも西でも一掃することにあった。

―フォーカス死後におけるスクレロス二度目の反乱―

23.
バルバロイを一掃するという事業はしかし、皇帝がスクレロスの二度目の反乱に掛かり切りになったため、先送りしなくてはならなくなった。少なくとも予定されていたバルバロイに対する遠征は当面、不可能となったのである。

フォーカスの死後、スクレロスとの同盟よりも前からフォーカスの指揮下にあった軍の一部は、フォーカスへと寄せていた期待を裏切られて、雲散霧消する。

この間、スクレロスおよび、彼と共にアッシリアから逃げてきた者たちは、郷里へと帰っていた。スクレロスらは、進んでその軍を再編成する。彼らは、数の上から言ってフォーカス軍と同等の独立した軍団を作り上げたとも言えるが、それは、皇帝の目にも、まさしく脅威と映っていた。

24.
このスクレロスという男は、身体能力ではフォーカスとは比ぶべくもないが、軍略や采配では、偉大な第一人者であった。また群を抜いて才知ある人物と目されていた。

そのため二度目にバシレイオス2世との争いが勃発した際、スクレロスは、まともに交戦しないように用心する。彼の意図は、大規模な後続で自軍を増強して堂々たる会戦をするよりはむしろ、遊撃戦によって皇帝を悩ませることにあった。

実際の作戦で皇帝軍を圧倒しようとはしなかったが、皇帝側の輸送は常に、(スクレロス側の)警備隊によって止められ交通網は遮断され、国外から帝都へと運ばれる品々は、(スクレロス側に)押収されてしまう。それは、スクレロス軍の大きな優位に貢献した。

その上、厳重な警戒を維持することにより、帝国の急使によって伝達される命令書は奪われ、決して実行されなくなる。

25.
反乱は夏に始まり、秋まで延々と続いていた。一年が過ぎても、まだ策動は壊滅していなかった。実際、この凶事は長らく国家を悩ませることとなる。

スクレロスの軍に加わった者たちは、勤皇意識に苛まれて仲間割れを起こすことなど、もはや無かった。紛れもなく彼らは皆、公然たる反逆者であった。

指導者たるスクレロスは、断固たる決意によって、将兵を鼓舞し、彼らを一致団結させる。スクレロスは、恩顧によって、将兵らの忠誠を得て、温情によって、献身を得た。

スクレロスは、彼らの間に起こった諍いを調停し、同じ食卓で食事をとり、同じ杯で酒を飲んで、彼らを名前で呼んだ。そして、こうした思いやりによって、彼らの忠誠を得ていたのである。

26.
皇帝は、スクレロスを打ち負かすためにあらゆる権謀術策を試みたが、スクレロスは、そうした企みを全て軽くあしらっていく。良将と呼ぶにふさわしく、スクレロスは、自身の軍略をもって相手の計略や計画に対処した。

そのためバシレイオス2世は、敵を捕らえられないと見て、使節を遣わし、スクレロスに協定の交渉に臨むように、また反乱を取りやめるように提案する。提案を受け入れた場合、スクレロスは、バシレイオス2世自身に次ぐ地位を手に入れることになっていた。

初め、この僭称者は皇帝の提案に、それほどすぐには返答していない。しかし、後で提案について熟慮し、その際、今の自分の地位を過去と比べた上で、今と比べて将来に起こるだろうことを推測した。

[既に老境にあった]スクレロスが、このように自分の見通しを考えた時、提案された交渉は悪くない話だった。

そこでスクレロスは、帝国の使節を迎える場で、自身の威信を保つため全軍を招集する。そして、以下の条件でバシレイオス2世と和睦した。

スクレロスは帝冠を放棄し、緋色の帝衣を脱ぐこと、しかしながら、皇帝に次ぐ地位を保持すること。

スクレロスと共に皇帝に反旗を翻した将兵が現在の地位に留められ、彼が将兵らに与えた、いかなる特権も生涯、享受できること。

スクレロスの将兵たちは、以前から保有していた資産も、スクレロスから与えられたものも、いずれも没収されないこと。

また、そのほか、たまたま彼らのものとなった、いかなる利益も剥奪されないこと。

27.
こうした条件で合意に至ると、皇帝は、反逆者を迎えて協定に批准するために帝都から自身の最も広大な領地の一つへ出かける。

バシレイオス2世は帝王の天幕の内に座っていた。

スクレロスは、ある程度離れて、警護役によって導き入れられる。警護役は騎乗せず徒歩で付き添い、前置きもなく、スクレロスを皇帝の下へと案内した。

スクレロスは背の高い男であったが、老齢でもあり、そのために左右から支えられながら入ってくる。

皇帝は彼が何とか近づいて来ているのを見ると、居合わせた者の方へ向かって、[誰もが知る話にある]有名な言葉を発した。

「見よ! 余はこんな男を恐れていたのだ! 一人で歩くこともできない、哀れみを乞うかのような老いぼれを!」

スクレロスはと言えば、権力を誇示する勲章を捨てたが、その際、名誉欲のためか、失念していたためか、緋色の履物を履いてしまっていた。

その姿は帝室の栄典を一部、横領しているように見えるものである。

ともかく、スクレロスは緋色の履物を履いたまま、皇帝に近づいた。

バシレイオス2世はスクレロスの様子を遠目に見て不快感に目を閉じる。スクレロスが細部に至るまで普通の市民のような格好をしない限り、彼に会うのを拒絶する構えである。

いずれにせよ、スクレロスは天幕の入口ですぐに緋色の履物を放り捨てて中に入り、皇帝の面前へ出た。

28.
スクレロスが入ってくると、バシレイオス2世は立ち上がり、両者は抱擁を交わして、語らい始めた。

スクレロスが反乱について釈明し、反乱を計画、実行した理由について説明すると、バシレイオス2世は静かに謝罪を受け入れ、起こった出来事を、不幸な巡り合わせのためだと言った。

彼らは同じ杯を共有したが、その際、皇帝は自らが最初に口を付けて中身をいくらか飲んでから、スクレロスに渡している。皇帝はそうやって、スクレロスの脳裏から毒殺の懸念を払拭し、協定の神聖さをも示したのであった。

この後、バシレイオス2世は、自身の帝国をどうすれば波風立てずに保つことができるか、老練の指導者であるスクレロスに質問する。スクレロスはそうした質問に答えたが、しかしそれは、一般に思い浮かべる助言の類ではなく、実際には、悪魔のような構想に聞こえた。

彼は言った。

「排除なさいませ。増長する長官どもは。遠征する将軍らに有り余る物資を与えてはなりません。やつらを不当な苛税で疲弊させて、自分の仕事に忙殺されるようになさいませ。帝国の議事に女を参加させてはなりません。誰からも近づきにくく有るように。胸の奥底に秘めた計画は、少数の者とだけ共有なさいませ。」

と。

29.
そうした訓戒で話は終わった。

スクレロスは、与えられた地方の領地へと去り、間もなく亡くなっている。

皇帝の話に戻ろう。

バシレイオス2世は、臣下の扱いに、驚くほど慎重になった。彼が支配者として築き上げた世評の高さが、忠誠心に由来するというよりも、むしろ恐怖心に由来しているというのは、全くもって真実と言える。

バシレイオス2世は、年を重ねて経験豊かになるにつれて、自分より見識高い人間の判断に頼らなくなっていった。彼は、一人で新しい政策を始め、一人で軍を配備する。

民政では、明文化されない皇帝自身のひらめきによって統治がなされた。そのひらめきは統治のために、生まれつき彼に備わった見事なものだった。

結果としてバシレイオス2世は、学者たちを一顧だにしなくなる。それどころか、いわゆる教養人を徹底して軽蔑する傾向にあった。

だから、皇帝が学問を軽蔑している間に、少なからず哲学者や雄弁家が輩出され、台頭したことは、私には驚くべきことのように思える。

この矛盾をどう理解したら良いだろうか。

私が思うに――

当時の人々は、将来に資する目的で学問に打ち込んだりはしなかった。つまり、彼らは、学問それ自体のために学問を磨き上げていったのである。そうした精神により、この頃の大半の人は教育の問題には迫らず、個人的な利益を学問に励む第一の理由と考えていた。

さらに言えば、利得こそが学問へと熱意を向ける動機であったろうし、もし、利益が得られないなら、みな学問をすぐに放り出してしまったであろう。

実に恥知らずな話ではないか!

30.
それはさておき、皇帝の話に戻らなくてはなるまい。

帝国からバルバロイを一掃し、皇帝は、自身の臣下もまた完全に征服した。そう、ここでは「征服」という言葉を宛がうのが適切だろう。

彼は、従来の方針を棄てることに決め、大家門は屈辱を受けて他と変わらない地位に置かれた。そうしてバシレイオス2世は、権力闘争と言う名の勝負において、かなりの成功を収めるに至る。

皇帝は、知性のきらめきもない、門閥の出でもない、学識もないようなお気に入りたちに囲まれていた。彼らは勅書を委ねられ、皇帝と国家機密を共有するのが常となる。しかし、その時から、皇帝の備忘録や寵臣らへの要請は、表現豊かでなくなり、簡素なものとなった。

簡素な声明――
[バシレイオス2世は、書くか話すかに関わらず、その内容を優雅に作り上げることを避けている。]

彼はよく、ちょうど言葉が口をついて出る時に、秘書にそれら全てを順々に、一つなぎにして書き取らせたものである。バシレイオス2世の演説には、趣巧や余計なものなど無かった。

31.
臣下らの増長や嫉妬を挫くことで、バシレイオス2世は自らの権力保持の道を容易にする。

さらに、国庫にもたらされた財貨の出口を塞ぐことにも、余念がなかった。一部は緊縮財政の実施によって、また一部は国外からの新たな流入によって、とてつもない額の富が築き上げられている。実際に帝国の国庫に蓄えられた金額は総計20万タラントにもなっていた。

皇帝がそのほかに得たものついては、それらを記述するのに適切な言葉を見付けるのが実に困難であるとも言える。

イベリアとアラビアに貯め込まれていた全ての財宝、ケルト人の間に見つかった富やスキタイ人の土地に蓄えられていた富――要は、我々の国境を取り囲むバルバロイのあらゆる富――

全てが一つ所にかき集められて、皇帝の金庫に積み上げられた。

これに加え、皇帝に対して反逆し、鎮圧された者の全ての財貨についても皇帝は金庫室に運び去って没収している。

金銀財宝を収めるための宝物庫は、手狭になってしまった。そのため皇帝はエジプト式に螺旋状の回廊を地下に掘らせて、そこに大方の財宝を収めている。

彼自身はそれらに喜びを感じてはいなかった。反対に大部分の宝石については、白い[我々が真珠と呼んでいる]ものも、色とりどりに光り輝くものも、帝冠に散りばめて彩りを添えるどころか、地下の金庫室へ収めてしまっている。

同時にバシレイオス2世は、行列に加わる際や長官らに謁見する際は、ただ緋色のローブを着ているに過ぎなかったが、明るい緋色ではなく、濃い色合いの緋色で、一握りの宝石だけが彼の尊さを示すものとなっていた。

皇帝は、我々の国境を守り、我々の領土をバルバロイの襲撃から保護する一人の兵士として、その治世の大半を過ごしている。

また、蓄積した富から自らは何も得なかったばかりか、繰り返しその富を増やしさえしたのであった。

32.
バルバロイに対する遠征においてバシレイオス2世は、他の皇帝が習慣としていたように春の半ばに出陣し、夏の終わりに帰還するというような手法は採らなかった。

彼にとっては目的を達した時が、帰還の時となる。

バシレイオス2世は冬の厳寒にも夏の酷暑にも同じように平然と耐え、自己を律し欲望を抑えた。実際、自然に沸き起こるあらゆる欲望を厳しく抑制する、バシレイオス2世は、鋼のような男であった。

彼は、軍隊の詳細についても正確な知識を持っていた。それは、個々の部隊による連携が全体に及ぼす作用や、いろいろな陣形に適した様々な編成や展開といった一般的な知識というわけではない。

それをはるかに超えた知識である。

プロートストラトールやヘミロキテースといった官職の任務、その下にある職の任務など、全てにおいてバシレイオス2世にとって不明なことは無かった。そうした知識は、戦争において役立っていた。

従って、こうした階級にふさわしい仕事が他の役職へ割り振られることは無かったのである。

皇帝は、個々人の性格や戦闘での任務についても通じており、それぞれの性格や練度に対してどういった仕事が適しているか知っていた。バシレイオス2世はそうした能力を発揮して、適材を適所において活躍させている。

33.
さらにバシレイオス2世は、自らの将兵らに適した様々な陣形を知っていた。本から得た知識もあれば、作戦中にひらめいて自ら考案したものもある。

バシレイオス2世は、自ら遠征を計画し、戦争の指揮を執って、軍を編成したが、個人的には交戦を望まなかった。

突然の後退は、混乱を呼び起こすかも知れないとして、大体において彼は軍を静止させている。

軍を指揮する時は、距離を取って小競り合いをし、機動戦は軽装兵に委ねた。ひとたび敵と交戦すると、定期的な連絡がローマ軍諸部隊の間で行われる。本営は騎兵隊と連絡を取ったが、その騎兵隊は、軽歩兵、また重装歩兵隊と連絡を取るようになっていて、全軍は堅牢な塔のように編成されていた。

全ての準備が整うと、隊列の前に飛び出したり、隊列を乱したりすることは厳に禁じられることとなる。命令に背いたり、勇猛果敢な兵士が隊列の前に躍り出て抜け駆けしたりした場合には、敵を打ち破って手柄をたてたとしても、帰還後に功績に対する叙勲や報償を受けることはできなかった。

それどころか、バシレイオス2世は、そういった者を即座に軍から追放し、一般の罪人と等しい扱いで処罰している。

一糸乱れぬ軍の重量感が、勝利を得るための決定的な要因であるというのが彼の考えで、そうであるがゆえにローマ軍は無敵であると信じていたのであった。

バシレイオス2世が戦争の前に行う入念な閲兵は、よく兵士たちを苛立たせていた。兵士たちは公然と皇帝を悪しざまに言ったが、皇帝は分別をもって受け流している。彼は、兵士らの悪口に静かに耳を傾けると、

「こういう用心を怠っていると、戦いはどこまでも果てしなく続くものとなろう。」

と晴れやかな笑みを浮かべながら言ったのであった。

34.
バシレイオス2世の性格には二面性があり、穏やかな平時と同じように戦時の危機にも自身を容易に順応させた。正直なところ彼は、戦時にはより悪党らしく、平時にはより皇帝らしかったと言える。

彼は、怒りが噴き出すのを抑えた。ことわざにある「灰の下の炎」のように怒りをその胸の内にとどめたのである。

しかし、戦争において、命令違反があった時には、宮廷へ帰り着いた時に怒りをあらわにしていた。恐ろしいことに、そうした時には、悪人のように(その者に)報い受けさせている。

普通、バシレイオス2世は自身の考えに固執したが、時には考えを変えることもあった。多くの場合、彼は罪についてその原因を探り、最終的には一連の容疑を晴らした。軍令違反者の多くは、皇帝が同情して理解を示したり、違反者の身の上に別の関心を寄せたりすることで、赦しを得ることになったのである。

バシレイオス2世はいかなる行動を取る時もゆったりとしていたが、ひとたび決めるとそれを進んで変えるようなことは決してしなかった。

従って、友人らに対するバシレイオス2世の態度は、彼らへの評価を改めざるを得ないような場合を除いて、変わることは無かったのである。

同様に、誰かに対して怒りだすと、皇帝はしばらく怒りを静めずにいた。

実際、バシレイオス2世が下す評価は、変えることのできない神の啓示による審判のようであった。

―バシレイオス2世のひととなり―

35.
バシレイオス2世の性格についてはそういったところである。

彼の明るい青色の瞳は、燃えるような強い光を宿していた。眉は突き出ておらず、陰鬱さもなく、女性のもののように直線的でもない。それでいて見事な弧を描いており、誇り高さが滲み出ている。その容貌からはバシレイオス2世に備わった天性の品格が窺えた。

目は[悪辣さと狡猾さの象徴とされる]落ち窪んだ目ではなく、また、[軽薄さの象徴とされる]ぎょろぎょろとした目でもなく、キラキラと雄々しく輝いていた。

バシレイオス2世の顔は、中央から真円形に広がって丸みを帯びており、しっかりとした長すぎない首で肩と繋がっている。

その胸は張り出しておらず、垂れ下がってもいない。そうかと言って抉れているわけではなく、つまり貧弱ではなかった。むしろそれは中庸で、他の部分とも調和していたのである。

36.
バシレイオス2世の身長は普通より低かったが、個々の部分がそうであったように均整は取れており、姿勢も真っ直ぐに伸びていた。

歩き姿を見れば、常人と変わりなく見えるが、馬上の人となると、全く比類ない印象となる。鞍に跨がり麾下の騎兵と同じ姿勢を取ったその姿は、一流の彫刻家が彫り上げた彫像を思わせるのである。

手綱を付けて馬に跨がり、急襲をしかける時、皇帝は鞍上に揺るぎなく立ち上がったが、上り坂でも下り坂でもそうであった。そして手綱を引いて馬を止める時には、まるで翼でもあるかのように高く飛び上がる姿になる。馬に乗る時も降りる時も等しく優雅であった。

年を取ってからは、あごひげが薄くなった。しかし、頬より一斉に下りる髪が濃く豊かになっていて、顔の両側に巻きついていたから、真ん丸にひげに覆われた状態に見えた。

彼にはそのひげを指でしごく癖があった。とりわけ、怒りがこみ上げてきた時や謁見の時、考え込んでいる時にはそういうしぐさが現れる。それは、よく見られる癖であったが、もう一つ、肘を張って腰に手を当てる癖もあった。

バシレイオス2世は流暢に話す人ではない。実際、彼は早口で、ほとんど休みなく話し、学識ある人よりは、農民のようである。

彼は、全身を大きく揺らしながら、大声で笑った。

37.
この皇帝は他の全ての君主よりも長寿を保ったように思える。誕生から二十歳になるまで、父、そしてニケフォロス・フォーカス、さらにその後継者であるヨハネス・ツィミスケスと皇帝位を分け合っていたためであろうか。

その期間、バシレイオス2世は従属的な地位にあった。

しかし、続いての52年間は、最高権力者として統治を行っている。従って彼は崩御した際、72歳であった。(実際には976年、満18歳の時にツィミスケスの崩御によって皇帝となり、49年の治世を経て、1025年に満67歳で崩御している。)